fruitmixpower

当ブログはアフィリエイト広告を利用しています。

大河ドラマ『どうする家康』がいよいよクライマックス!残すところあとあと2回!!家康ロスに突入。

大河ドラマ『どうする家康』

残すところあとあと2回となりました。

早いですねぇ〜。

終わる前から既に家康ロス。

ドラマはいよいよ徳川家VS豊臣軍

戦の火蓋がおとされましたね。

 

ドラマではどのような視点で

魅せてくれるのか楽しみです。

 

では、徳川家康を語るに外せない

大坂夏の陣」「大坂冬の陣」。

簡単に、見ていきたいと思います。

 

名前が似ているのでどちらが先に起きた戦か迷う方もいらっしゃるかと思いますが、


先に起きたのは「大坂冬の陣」です。
(1614年の11月〜12月)


次に起きた戦が「大坂夏の陣」。
(翌年1615年4月〜5月)

 

どちらも大坂城周辺で行われた戦で、
この2つの戦を合わせた呼び名が
「大阪の陣」とか「大阪の役」です。

 

どちらも
豊臣本家(羽柴家)VS徳川家康
の戦ですが、なぜ戦となったのかというと、

 

秀吉亡き後、
豊臣政権では徳川家康五大老)が

力を持ち始め、

不服に思った石田三成が挙兵し起きた戦が

関ヶ原の戦い」。

石田三成VS徳川家康


家康は三成を破って政治の実権を握り、
豊臣家領地を→1/4まで減しています。
(※それでも豊臣家の権力の強さに変わりなく)

 

その後、
1603年 徳川家康 征夷大将軍に就任。


これにより、

  • 徳川家
  • 豊臣家

の2大権力共存状態に。

 

徳川家康は幼い豊臣秀瀬(豊臣後継者)の

後見的立場でしたが、

将軍に就任したことで

豊臣家と権力は同等に近くなったのです。

 

1614年 
京都方広寺にて

開眼供養が実施される予定になっていました。
(※お墓を建てたとき、仏壇を購入したときなど、仏様の魂を入れ込む大切な供養のこと)

 

梵鐘の銘文として書かれた

  • 「国家安康」→家康の「家康」は並んでない
  • 「君臣豊楽」→「豊臣」が並んでいる

 

の文字が書かれてあることを知った家康は、

呪いが込められている!

と、言いがかりをつけて激怒。

 

豊臣家討伐の決定打となりました。

 

これが「方広寺鐘銘事件(釣鐘事件)」

です。

 

(※豊臣家が方広寺を再建した時、釣り鐘も鋳造。)
(※釣り鐘の銘→事物の来歴&功績を記したもの)

 

まぁー本当のところはわかりませんが、

どちらにしても家康は

豊臣を何とかしたかったのでしょう。

 

討伐をする理由ができたというわけで、

もしかすると家康にとっては超がつく

好都合な出来事だったのかもしれません。

 

こうして
徳川軍(兵は約20万~50万)
 VS
豊臣軍(兵は約10万)
大阪冬の陣」勃発。

 

兵数では圧倒的な差がありましたが、

豊臣軍も大坂城周辺に砦をたくさん築き

粘りました。

 

豊臣軍の作戦はズバリ!
籠城戦!

 

徳川軍はこれら多数の砦の戦いに勝利し、

大坂城を完全包囲しましたが、


真田丸の出城に苦戦。

 

戦が長引けば長引くほど

  • 季節が冬
  • 兵糧不足

‥ということで戦を続けるのは難しく

家康は豊臣軍に対し、和平を提案。

 

和平条約の内容

  • 豊臣の牢人衆たちは不問にする
  • 豊臣秀頼の本領を安堵とする
  • 豊臣秀頼の身の安全を保証する
  • 淀殿の人質としての江戸在住は不要とする
  • 大阪城を開城すれば望む国を与える
  • 大阪城惣構・二の丸・三の丸の破却
  • 堀の埋立てをする

 

大坂冬の陣」はこうして

和平を結び

豊臣家も徳川家も残る形で決着がつきました。

 

何かいい感じに穏やか〜に

決着したようにも見えますが、


豊臣にしても徳川にしても
共存したかったわけではないので、

交渉成立後も

互いに戦の準備を進めたいた…そんな時、

 

豊臣家で牢人の処遇問題が発生します。

 

実は大坂冬の陣の後も
豊臣秀頼は牢人を見捨てることができず、

  • 金銀の支給、
  • 新たな牢人の受け入れ

を認めていたので、
大坂城には牢人で溢れていました。
(大阪を出ても生活できないので大坂城に住み続けていたのです)

 

一方、家康はというと、
騒ぎを起こす牢人を認めるつもりはなく

秀頼に対し、

を要求しました。

 

この交渉の決裂が原因で、
1615年「大坂夏の陣」勃発

 

大坂冬の陣」で活躍した堀は、
和平条約を結んですぐ埋め立てたので、

大坂城を防御する力は失われており、

 

冬の陣のような籠城をとることはできず、
城外での戦を余儀なくされる形となったのです。


兵数では不利な豊臣軍。
勝利するのは困難。

 

もしかすると、
家康は、初めからこのことを

見通していたのかも知れません。

 

そんな豊臣軍が徳川軍に勝つことがあるとすれば

ただ一つ、
家康の首をとること!

 

で、真田丸こと真田幸村

徳川軍の本陣の家康に向い幾度も突撃。


徳川軍の体制を崩すことに成功!

 

家康は切腹を覚悟したとされています。


しかし、
豊臣軍の味方が総崩れしたことで、
豊臣軍は一気に窮地に陥り、
反撃は難しく、
戦意は喪失。

 

逃亡&裏切り者がでるなど、
軍はバラバラに。

 

さすがの真田幸村も疲れ果て

討ち取られてしまいます。

 

秀頼の妻は秀頼の助命を懇願しますが

返事はNO。


豊臣秀頼は側室と淀殿と自害。


豊臣家は完全に滅亡することとなったのです。

 

家康はこれで完全に

天下統一を果たし、

 

ここから徳川家の江戸幕府の時代が続いていくこととなるのです。

 

豊臣の敗因として挙げられているのは、

豊臣家には

  • 支えてくれる大名や武将が少なかったこと
  • 豊臣軍は真田幸村長宗我部盛親など一部の武将や元大名を除き、大半が牢人だったこと

  その為、籠城をするしかなかったこと

  • 豊臣家に有利な和睦の提示できなかったこと

  →主導権が徳川軍にあった

 

など、今となっては

色々な要因をあげられています。

 

家康は運がいい!とか

神が味方してくれてる!とか

古狸とかも

言われますけど、

 

家康はやっぱり力ある武将だし、

戦の戦略にしても人の心を摑むにしても

家康は凄かったのだと改めて感じます。