徳川家康と石田三成といえば、やはり対立イメージが強いですよね。
対立ってことは不仲なのでは?
と思われがちですが、実はそうでもなかったようです。
では、二人の仲、関係について簡単に見ていきましょう!
◯石田三成はどんな武将だったのか
家康との仲は?よかった?悪かった?
子どもの頃から秀吉に仕えていました。
頭がとにかく良くて大人になった三成は “豊臣の頭脳” と呼ばれていたそうです。
性格は、くそ真面目で、忠誠心に溢れていて、
与えられた仕事はきっちりこなす!
といった人。
こんな人なら誰からも信頼されて好かれる人だったのかなぁーと思われますが、
なんせ主君の言葉は絶対!
なので、良くも悪くもそのとお〜りに進めるタイプ。
嫌なこともそのまま伝えたり、強引にでも完璧に事を進めるので、
上司からすれば良くても、周りや部下からは、
融通が利かない。と、誤解を受けてウザがられたり、相手に逆恨みをかったりすることもあったのだとか。
芯はブレないので、三成を深く理解してもらえたら尊敬に価するのだと思いますが、
偉そうに!と、思われることのほうが多かったようです。
賢いけど人間関係は不器用というか計算しない、いい意味で馬鹿正直で
そんな中、家康は三成を評価しています。
「三成のような家臣が欲しい」と言っていたそうです。
さすが、天下人になる人は見る目があるんですねぇ〜。
余談ですが、当時の家康も好かれていたか…というと、そうでもなく次天下狙ってんじゃないのーって噂の的。
周りから好かれていなかったようです。
ポジションは違えど似たところがあったふたりだからこそ、通づるとこがあったのかもしれませんね。
そういうところから、二人はわかり合っていたとか、実は仲よし説もあります。
◯徳川家康と石田三成はなぜ対立するようになったのか
秀吉は生前、自分の死後、家康の独走を防ぐ為に、
五大老・五奉行を設置しました。
☆五大老・五奉行→秀吉の後継ぎの秀頼はまだおさなかったので、支えが必要だったので設置された。
・五奉行→秀吉の部下
・五大老→有力大名
三成は秀吉が亡くなったことを家康に伝える時
「今後もともに豊臣家の為、励みましょう」と言いますが、
家康は、諸大名と婚姻関係を結ぶなど好き勝手に動くようになり、次第に
政治の実権までもを握るようになっていったのです。
トップがいなくなるとこういった内部いざこざが目立ちますよねー。
実は秀吉が、生きているときも表立っていなかっただけで亡くなる前から、あるのはあったんです。
内部いざこざ
「文治派」→三成が中心の政務担当
VS
「武断派」
のいざこざ…。
合戦もしています。
武断派が家康を頼るようになると、さらに激しさを増し、間に前田利家が入ってくれていたので戦にはならずにすんではいたのですが、
前田利家が死去した途端
対立はいつしか
・徳川派
・石田派
にわかれ激しさを増していきました。
そんな中、武断派7名が三成襲撃計画を立てるのです。
三成は事前に察知。
難を逃れることができましたが、
この件の仲裁には家康が入り、
三成は謹慎処分。一時失脚。
家康の力は強さを増していくことに…。
家康と三成の溝はさらに深まったのです。
その頃、誰もが次の天下は家康かなぁ〜。と思い始め、それに反発したのが上杉景勝でした。
家康は、上杉景勝(五大老)が命に背き軍備を整え始めた = 謀反の疑いあり
とし、他の五大老・五奉行も従わせ、
景勝討伐のため大軍で出陣するのです。
◯「関ヶ原の戦い」はなぜ起きたのか
三成は家康出陣(景勝討伐)を機に、挙兵します。
もちろん打倒家康!
豊臣政権を守りたい三成。
大坂城に徳川派がいなくなる→まさに絶好のチャンス!
三成は、
・諸国の大名に声をかけ大軍勢を集め
・徳川家臣の家族を人質に
・徳川兵のいる伏見城を攻撃
景勝討伐に会津へ向かっていた家康は、三成挙兵を聞き緊急会議(小山評定)をし、石田軍と戦うことを決めました。
家康の側(東軍)
VS
三成の側(西軍)
これがのちに「関ヶ原の戦い」と呼ばれる戦です。
◯「関ヶ原の戦い」西軍の陣の配置は完璧!なのに惨敗。どうして?
「関ヶ原の戦い」は家康に(東軍)軍配があがりました。
合戦は西軍優勢でスタート。
しかも、西軍の陣の配置は完璧だったと言われています。
なのに決着は約6時間後についたといわれています。
なぜ、こんな短時間で負けてしまったのかといいますと、
関ヶ原の西側南宮山の山頂に、
毛利輝元(西軍の総大将)&吉川広家勢はいました。
輝元が背後から家康をつく!という作戦でした
が、広家は東軍とも通じていたので、
山から一歩も動かず。
で、輝元は軍を動かすことができず
結果、毛利輝元は大坂城に入ると、何もせずに負けたのです。
もし、作戦どおり事が進んでいたら「関ヶ原の戦い」は間違いなく西軍が勝利したといわれています。
皮肉なものですね。
もし、ってことは考えても仕方がないのかもしれませんが、言いたくなりますね。
三成も悔しかったことでしょう。
しかし、この戦、どっちにつこくかで迷ってる武将や密かに裏切ってる武将はたくさんいたので吉川広家だけが原因なわけではありません。
他に、小早川秀秋もずっと迷っていたしたが家康に催促されて東軍へ寝返っています。
なぜ、寝返りが多かったのかというと、
実は、景勝討伐に城を出た後、家康は江戸に1か月滞在し、寝返りそうな西軍の大名に事前に手紙を送っていました。
内容は「寝返ってくれれば褒美をあげる」といった感じ。
秀秋の裏切りを機に、東軍が優勢とわかった大名らが次々と寝返り、
家康は見事勝利したのです。
勝利後、家康は西軍から没収した所領を自分と東軍の大名らに恩賞として分配し、自身の直轄領も250万石→400万石増させ、圧倒的力の差を示しました。
また、家康側に寝返った武将らにも土地、石高が加増。
毛利輝元(西軍の総大将)は、
8ヵ国120万5,000石を没収されますが、広家により2ヵ国36万9,000国の領主として毛利家を存続できました。
他の大名も減封や取潰し…厳しい処分を受け、豊臣家、豊臣派大名の力が弱まることになりました。
勢力は弱くなっていましたが、徳川幕府の権力下にない豊臣秀頼は、その後も大名、公家に対しまだ権威を保ち続けていました。
1603年 征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、2年後には、秀忠(息子)に将軍職を譲り、駿府に行きますが、大御所と称し政治の実権は握っていました。
未だ権威を保ち続けている豊臣秀頼。
家康は、豊臣家の存在を脅威に感じていました。
そこで豊臣家が方広寺で行った供養にいちゃもんをつけ、ありえない条件をつきつけて挙兵させ、
戦に持ち込み家康は勝利しています。
これが、
1614年の大坂冬の陣、
1615年の大坂夏の陣
です。
豊臣家は滅亡しました。