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◎大河ドラマ『どうする家康』茶々を演じるのは北川景子さん!

大河ドラマ『どうする家康』で、秀吉の側室となった茶々が登場しました。

誰が茶々をするのかなぁー。とずっと楽しみで楽しみで!

なんとまさかの北川景子さんでしたねぇー。
北川景子さんは同ドラマで“お市の方”を演じておられて、それがあまりにきれいで素敵で…。
ラストシーンはもうみれないのか…とすごく残念でしたが、

今回、娘・茶々役で再登場!
なんて嬉しいサプライズ!!
最高過ぎます!

しかも演技がお見事!
メイクの感じも変えてあったこともあるとは思いますが、お市の方と茶々は別人でしたね。
さすがの演技力です。

史実でも茶々はお市の方に姉妹の中でも一番似ていたとありますので、このキャスティングはまさにナイスです!

個人的に
ドラマ最後まで観たい愛がさらにアップ!
ということで、今回は、茶々様について書いていきたいと思いますっ!

◯茶々のプロフィール簡単に見ていきましょう!

〈生年月日〉

1569年(永禄12年)とされていますが、はっきりとはわからないそうです。

〈家族は?〉

   三女→江。

1573年浅井氏&朝倉氏は信長に追い詰められ滅亡しました。
茶々4歳のとき。
4歳で父と兄、生まれ育った城をうしなったのです。

母が信長の一族だったので、身柄は保護され、母と三姉妹は無事でした。

のちに母は再婚しますが、義理の父もまた戦で亡くなっています。
その時に母も自害。

以後、
浅井長政の姉
織田長益(信長の弟)
の世話を受け、生きていくのです。

〈性格〉

茶々は負けず嫌いで気の強い女性であったとされます。

〈配偶者〉

豊臣秀吉。茶々19歳。秀吉50歳。
(歳の差30歳以上説あり)

秀吉の側室となりました。
秀吉は、茶々にとって2人の父と母を死なせた敵という相手でもあります。

〈子ども〉

秀吉は女好きで有名ですが、以外にも実子はおらず、
茶々との間に年老いてからできた実子が初誕生。秀吉は大喜び。

後継者は鶴松に定め、茶々には山城(京都)の淀城を授けました。
で、茶々はのちに“淀の方”“淀殿”と呼ばれるように。

天下人の子の誕生で地位が、
正妻・高台院と対等に。
しかし、
豊臣鶴松→2歳で病死。
その後、

  • 豊臣秀頼誕生→すくすくと育ち
  • 身長190cmの巨漢に成長。

と、ここで、ちょっとした謎が…。
秀吉の体格は小柄
ずっと子ができなかった

なのに年老いているにも関わらず茶々との間にポンポン続けて懐姙。
しかも、成長した息子は巨漢。

本当に秀吉の子なのか??説が浮上。
真相は不明のままです…。

と、いっても、茶々ができやすいタイプだったとか、長政は長身と言われているので隔世遺伝ってことかもしれないですし、なくはないような気もしますね。

まぁーとにもかくにも、秀頼は健康に育ち、

天下人秀吉の後継者の母というポジションを再びゲット。

ここから茶々の権力もアップしていくのです。

〈後継者問題イザコザ。本当にあった怖い話〉

実は鶴丸が病死したあと、秀吉はおそらく自分に子どもはもう生まれないだろうなぁ〜と考え、
秀次(秀吉の甥)を養子にし、後継者指名。ほんでもって関白の地位も継がせてました。
そりゃあそうですよね。
今までできなかったんですからね。
それに歳だし。
ですが、秀頼が誕生するのです。
秀吉はこの誕生で悩みます。

 

パターン1

  • 秀頼に後を継がせる!

  →幼すぎる
パターン2

  • 秀次をそのまま関白の地位に!

  →政権安定
  →しかし将来、秀頼が将来関白の地位につけ       ない可能性がある


秀次も自分の子どもに継がせたいってなるかもですよねー。

 

秀吉は考え、
日本を5分割にして、

  • 5分の4を秀次
  • 5分の1を秀頼に任せることにしました。

 

秀次も秀頼の誕生に心穏やかではありませんでした。


そんな秀次に辻斬りの悪評が立ち、
1595年 秀次謀反嫌疑で秀吉は高野山に追放。
秀次を自害させ、
秀次の子が、秀頼の敵となる可能性排除の為、秀次の妻子を皆殺しにしたのです。

 

〈秀吉の死〉

1598年8月 死去。

  • 秀頼5歳。
  • 政権を担うのはとても無理。

その為、秀吉は生前、
徳川家康前田利家らを五大老に指名、石田三成らを五奉行に任じ。


秀頼の後見を務めるように遺言を残していますが、家康は好きに動き勢力を拡大。
やがて「関ヶ原の戦い」勃発。

 

関ケ原の戦い

1600年三成挙兵。


茶々は三成の謀反とし、家康&毛利輝元に鎮圧依頼の書状を送りましたが、
輝元は反家康連合で三成派の総大将。

 

茶々は中立の立場を取り、どっちが勝っても秀頼の地位が保てるよう配慮。

 

そして、家康の勝利。


家康は、豊臣家から政権を奪い、家康の政権確立&豊臣家の権力の削減を押し進めていきますが、

茶々はいつか豊臣家に権力を返還してくれるだろう〜と思っていました。

 

1603年

 

1605年

  • 嫡男・秀忠に将軍位を継承する。

  ↓

つまり、豊臣家に政権を返還しないということがはっきりとわかったのです。

 

  • 秀頼は右大臣に就任。
  • 家康は上洛を要請。

上洛とは将軍・秀忠に挨拶に出向くということ、つまり徳川家に臣従するということ。
今後、天下人になることはないということ。

 

茶々は怒り、家康との対立が決定的なものとなったのです。

 

もう、豊臣家に力はなく、徳川家に従うのが賢明な判断ではあるのですが、
茶々には秀頼が天下人になることを諦めきれず…。

 

こうして1615年「大坂夏の陣」勃発。
豊臣軍VS徳川軍

淀殿(茶々)と秀頼は自害することとなるのです。

 

〈まとめ〉

豊臣家を滅亡させたことで知られるので、悪く言われることが多いですが、
戦国の世で生きた彼女は、2度も父を失い、兄も失い。母も自害。
という哀しさを抱えていきてきました。


しかも、その原因となる豊臣秀吉の側室となるのです。
壮絶すぎます。

 

生まれはいいお家なので戦がなければ姫として健やかにお育ちになったであろう茶々姫ですが、そうはいきませんでした。

 

この時代の男は戦をしていましたが、女には女の戦があったのだと思いしされます。


必然的に気の強い女性となっていったのでしょうが、きっと家族思いの優しい心が芯にある方だったのではないかと想像します。