「戦国三英傑」の一人、徳川家康が主人公の2023年大河ドラマ『どうする家康』も残すところあと3ヶ月!
早いですねぇ〜。
前半は少し頼りない感じが印象的だった家康が、たくさんの場数を踏んで力をつけ、強くたくましくなってきて、ドラマもどんどん盛り上がってきました。
織田信長の亡きあと天下人となった豊臣秀吉と徳川家康のこれからがドラマではどのように描かれていくのか楽しみなところなのですが、
ちょっとその前に!
秀吉VS家康の「小牧・長久手の戦」で家康は秀吉に勝ったのに秀吉が天下人になったのはなぜ?
と、疑問に感じませんでしたか?
私は超疑問でした。
そこで今回は、
なぜ、家康は戦に勝利したのに秀吉に従臣することになったのか。
簡単に見ていきましょう!
◯1584年『小牧・長久手の戦』徳川家康VS豊臣秀吉の発端は何?
簡単に言うと、織田家の後継ぎ誰にするー?で意見が対立したのです。
↓
んっ?!
信長亡き後あとを継ぐのは織田家じゃないの?揉める必要ある?
と思いませんか?
では、ここで信長のお子さんについて見ていきたいと思います。
◯信長は子だくさん!
なんと20人以上子どもがいた!
信長の子どもは20人以上いましたが、男子はそのうちの11人。
で、生存者の中で信長の血を引いた子は次男・七男・九男だけでした。
既に信長は嫡男・信忠に家督を相続していましたが「本能寺の変」で亡くなってしまったので、
秀吉は、後継者は信忠の子である三法師に!と考えていていました。
そして、まだ幼い三法師に代わって自分が…みたいなことを考えていました。
清須会議で話し合って、後継ぎは三法師になりました。
その秀吉の心内がみえみえで「賤ケ岳の戦」勃発。
この戦で柴田勝家は秀吉に討たれました。
この時、後継ぎ問題に納得のいかなかったのが、うつけで有名な次男の信雄。
血縁関係でいったらオレじゃないの?!ってなことで、
家康に声をかけて秀吉を廃除しようと立ち上がった戦が「小牧・長久手の戦」です。
◎「小牧・長久手の戦」家康は秀吉にかったのになぜ天下人は秀吉になったの?
家康軍は勝利しましたが、家康の戦がこの戦の全てではなくてごくごく一部の戦で勝利しただけのことなのです。
それに、
・当時の二人の力の差は
秀吉>家康
・織田家での立ち位置も
秀吉>家康
・民の人気
秀吉>家康
どう考えても家康に勝目はありませんでした。
その上、秀吉は家康との関係をより強くしようと、妹を家康の正室にしました。
このため秀吉と家康は親族となったのです。
しかも、信雄が家康に声をかけてきたのに家康に相談もなく秀吉と先に和睦しちゃったっていう…。
と、なれば戦う理由はありませんし、家康も秀吉と和睦の道を選ぶ運びとなったのです。
つまり、戦では家康が勝利しましたが、素早い機転と行動で信雄の心を変え和睦に運んだ 秀吉の戦略の勝利ということです。
秀吉は人の心を掴むのがうまい!と言われていますがここでもその力が発揮されていたのですね。
ここから秀吉はどんどん力をつけていき天下人となっていくのです。
その他、大地震で大坂の被害が大きかったことなど他にも理由はあったようにいわれていますが、秀吉は家康を認めていたのではないでしょうか。