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大河ドラマ『光る君へ』藤原道長とは。藤原道長と紫式部は恋仲だった? 藤原道長役を演じるのは演技力に定評のある癒やし系イケメン柄本佑さん!

藤原道長を演じるのは、柄本佑さん!

平安時代の貴族社会において

藤原道長

極めて高い権力を有する存在でした。

 

若き日にまひろ(紫式部)との

出会いが特別な縁を築き、

後にはまひろの『源氏物語』の

制作をサポートし、

彼女が宮中での仕えを

奨励する役割を果たすといった

役どころ。

 

そんな藤原道長役を演じられるのは

 

映画、舞台、ドラマ…と、

多岐にわたり大活躍の柄本佑さん!

 

藤原道長といえば

源氏物語』の

イケメン主人公の光源氏

モデルとも伝わる人物ですよね。

 

柄本佑さんは

品があるし

長身でイケメンだし、

ぴったりの役どころですよね!

 

 

演技力はもちろんですが、 

雰囲気が素敵で

言葉が染みる演技をされるので、

どのドラマでも格好よくて、

同じ人なのに

違って見える

魅力ある俳優さんですっ!

 

毎回私は柄本佑さんに

癒やされています٩(♡ε♡ )۶

 

完全に沼にハマり中!

このドラマで

ファン層がまたまた

広がりそうですね。

 

大河ドラマ『光る君へ』では、

どのように藤原道長

魅せてくれるのでしょうか。

楽しみですね。

 

藤原道長とは

藤原道長

平安時代の中期に活躍した

貴族であり、

政治家として名高い存在でした。

 

藤原北家出身で、

名門貴族の中で

最高権力者としての地位を

築き上げました。

 

藤原氏は「大化の改新」で知られる

中臣鎌足の息子・藤原不比等の子孫です。

 

不比等の子どもは

・南家

・北家

・式家

・京家

の四つの家系に分かれており

 

道長の生まれた北家は

当時際立った存在で

 

代々、摂政や関白など

高位の官職を独占する家柄として

知られていました。

 

道長も早くから朝廷に仕え、

政治的なキャリアを

積み重ねました。

 

藤原道長の生涯

966年(康保3年)道長誕生する

父→藤原兼家

母→時姫

三男として誕生しました。

 

986年(寛和2年)

兼家は詮子(道長の姉)の子を

一条天皇」として即位させ、

兼家→摂政に就任。

 

道長は、朝廷内で順調に

昇進していき、

 

源倫子と結婚。

 

将来的には一条天皇の后となるであろう

娘を授かりました。

 

990年(永禄2年)

兼家逝去。

長男・藤原道隆が関白に就任。

995年(長徳元年)

道隆→病で、出家の末に早世。

 

道隆は息子・伊周(これちか)を関白にと

天皇に嘆願していましたが、

許可が下りず、

道隆の弟・道兼→関白に指名。

 

ところが道兼も、着任後、

数日で急逝。

 

次なる関白候補として

藤原道長が浮上。

 

姉の詮子の支持もあり、

伊周を制して「内覧」に抜擢。

 

翌年、左大臣に就任。

 

政治の指導権を握ることに

なりました。

 

※内覧→摂政や関白に準ずる役職

 

999年(長保元年)

藤原道長は娘・彰子(しょうし)を

一条天皇中宮天皇の后)として

宮中に迎えました。

 

1008年(寛弘5年)

彰子は子(後の後一条天皇)を

生みました。

 

1011年(寛弘8年)

一条天皇崩御に伴い

三条天皇が即位。

 

道長は娘・妍子(けんし)を

宮中に迎えます。

 

三条天皇の母は、道長の姉・超子(ちょうし)

 

三条天皇道長との

関係は良くなく

 

道長

1016年(長和5年)

三条天皇を強引に退位させ、

孫の敦成親王を「後一条天皇

として即位させました。

 

1018年(寛仁2年)

後一条天皇の元に、

娘・威子(いし)を入内させ、

「一家三后」を達成。

 

一族は最盛期を迎えました。

 

1028年(万寿4年)1月3日

藤原道長死去。62歳

皮膚がんまたは糖尿病による感染症と考えられています。

 

かつては、

糖尿病は喉が渇いて

大量に水を飲む症状から

「飲水病」と呼ばれていました。

 

体重の減少や体力の低下、

視力の低下など

症状として広く知られています。

 

藤原道長の日記に、

喉の渇き

視力の低下

といった症状が記されていて

糖尿病にかかっていた

可能性が高いと考えられています。

 

藤原道長はウエスト100cm超えの肥満体型

身長→172cm

※当時、男性平均身長159〜163cm

と、スラリと高かったようですが、

 

太っていたようです。

 

肥満の原因として考えられるのは

  • 連日の美食
  • 大酒
  • 運動不足
  • ストレス

   +

  • 御膳のお供

酒&酢&塩&醤(味噌の原型)

など味を上付して食べていたそうです。

 

その他、

貴族の方は頻繁に

  • 宴会
  • おもてなし

で、お酒を愛飲していましたし、

 

牛車での移動が一般的で、

運動不足だったのでは?

と推測されます。

 

功績をのこされた分

ストレスもあったでしょうし、

太りやすい環境であったのでは

と考えられています。

 

藤原道長の功績

摂関政治で権力を握る

 ※摂関政治天皇に代わり「摂政」または「関白」が政治を行う制度

  • 摂政→天皇が幼いときや

     女性の場合に政治を代行

  • 関白→成人した天皇の補佐

 

代々続く藤原家は、

娘を天皇家外戚に迎え入れ、

役職に就くことで、

権力を手中に収めてきました。

 

藤原道長はこの手法を熟知し、

3人の娘を巧みに

天皇中宮に迎え入れ、

 

摂関政治

黄金時代を築き上げました。

 

道長自身は

後一条天皇の時に

短期間摂政を務めただけで、

関白には就いていません。

 

実際には、

権力を一元化する上で

左大臣や「内覧」が

重要であると見抜き、

 

名誉よりも

実質を重視する

道長の戦略が窺えます。

 

文学への多大な貢献

藤原道長

文学に深い愛情を抱き、

 

漢詩&和歌の

巧みな詠み手としても

名高いです。

 

頻繁に歌会などの

イベントを主催し、

文学の庇護者として

精力的に活動していました。

 

彼の支援は

紫式部にも及び、

源氏物語』執筆中の

彼女に手紙を送り、

原稿を求めるなど

積極的にサポートしました。

 

和泉式部には

恋愛体験記の

執筆を奨励したそうです。

 

源氏物語』や

和泉式部日記』など、

平安時代

女流文学が後世に伝わることは、

当時の権力者である

藤原道長

大きな影響があったと

言えるでしょう。